2009/03/26

コミュニケーションのエントロピー増大の法則

SEM-Analyticsさんの記事
改めてtwitterの立ち位置を考えてみると、

"誰かに伝えたい"

というよりは

"自分のなかのもやもやや浮かんだものを吐き出したい"

というイメージが強い。

「意識可視化エンジン」

とでもいうでしょうか?

-マーケティングツールとしてのtwitter

というのを見て、「意識可視化エンジン」というところになるほどと思い、
人と人とがコミュニケーションを取る手段について、つらつら考えてみました。


テクノロジーの発達とともに色々とコミュニケーションのためのツールも進化してきたわけですが、ざっくりと追ってみると、


対面

手紙←メディアの登場(伝達コストの肩代わり)

電話←空間的制約解放(即時性の獲得)

メール←時間的制約解放(非同期コミュニケーションの実現)

ソーシャルメディア←人脈の壁を開放(セレンディピティの付与)

twitter←意識的制約の解放(コミュニケーションの意味範囲の拡張)


みたいなことになるのかなぁと。
あまりにざっくり&恣意的過ぎて、twitterもソーシャルメディアだろ、とか、そもそも整理の仕方がおかしいだろ、なんて突っ込まれそうですけれど(笑)

その辺の進化の整理はまたじっくり考えるとして、注目すべきはタイトルの件です。

仮に頭の中身そのものをひとつのオブジェクトとして考えると、どんどんエントロピーが増大しているではないですか。
当たり前ながら、こんなところにも宇宙の真理的法則が働いているんだなぁと感心してしまった次第です。

このまま行くと、エアタグなどのARや、ライフロギング、フィジカルコンピューティングなどの進化によって、無意識的制約の解放が起こってくるのでしょうかね?


そしてそのうち、物理的に自分と他人、主体と客体の意識が一体化して(頭に埋め込んだ電極から電波飛ばし合うとか)、人類総体としての超効率化、最適化が実現。
人類は全員で一つの生き物みたいな展開になるんでしょうか。

なんだか蟻みたいですね。愉快愉快。


最後の方はもうSFですけど、コミュニケーションはどんどん流動的な複雑系に向かっていますね。

僕の頭も今、ビールによってどんどん流動的で複雑な感じになってきているので、しらふの時にもう一回考えてみようかなと思います。

2009/03/20

比較基準が必要だ。

先日、弊社にインテグレートの藤田さんが講演しにきて下さった。

藤田さんの著書も読んだことがあり、コラムなども日常的に読んでいるため、お仕事の概要は頭に入っており、その上でのご本人からの具体的な事例紹介ということで、とても楽しく受講することができた。

そんな刺激的な講演を、出席できなかった上司にフィードバックする機会があった。

「PRを仕込むための情報クリエイティブがすごいんです」、「世間の空気作りから始めるんです」と一生懸命説明するのだが、上司から返ってきた返事は、「それって、いままでの普通のPR会社と何が違うの?」という質問だった。

そこで自分は沈黙してしまったのだ。
いままでのPR会社のことを知らないから。


新しい手法や考え方というのは、必ずそれまでの手法がベースになって出てくる。
革新的だと言われる手法も、比較するものがなければ革新的かどうかの判断のしようがない。

裏を返せば、それまでの経緯を知らずに最新の手法や考え方を取り入れたとしても、効果が半減してしまう可能性がある。

ということで、新しいものを取り入れるときは、必ずそこに辿り着いた経緯とセットで取り入れるよう心がけたいと思ったのだ。

う〜ん。どうしたら効率よく歴史を学べるのかな。やっぱり先輩と飲みに行くのがいいのかな。

2009/03/04

本日気づいたこと。

本日気づいたことが一つあるのですが、
自分のブログにコメントがなされていることに、今日初めて気づきました。

コメントされたらメールで通知が来るという勝手な思い込みと、
そもそも、コメントされる程、人に見られているブログじゃなし、と思っていたので、完全にコメントスルーしてました。

すみません。

メール通知は設定しなきゃダメなのね。
以後気をつけます。

これだけでエントリ終わらすのもなんなので、お気に入りのPVでも貼付けてお茶を濁しておこうかと思います。

ではでは。


ostooandell / 君はまるでダンスしているみたいに

2009/03/03

文体。

自分のブログは文体がバラバラである。
「〜である」調と、「〜ですね」調が混ざっている。

書く時に意識している訳ではないのだけれど、取り上げる話題によってなんとなく切り替わっている模様。
書く時にどっちかを気にしていないのがそもそも書き手としてどうなの?とは思うけれど、なんとなく切り替えている。

もちろん「〜ですね」調の方が、読んでくれている人を意識していて、かつ、ちょっとカジュアルな気持ちで書いていることが多い(と思う)。

そして、今回もそうなのだけれど、「〜である」調の方は、割と独り言チックと言うか、エッセイ的心持ちが現れているよう。

自分は、勝手に川上弘美先生を師匠と慕っており、特に初期の頃の川上作品にはたまらなくクラクラさせられた思い出がいっぱいである。
さらに、川上先生が敬愛する内田百閒先生に至っては、大先生として崇め奉っている。
お二人を好きな理由は、お酒の描写がとても達者なことに尽きるのだけれど、それについては語りだすときりがないので控えておく。

そして、エッセイ的心持ちの時は、自然と敬愛する両先生のパクリ文体(パクリと言う程上手くもないけれど)になる。

この辺り、ブログをどうしたいのかがはっきりしていないからだなぁと思うんだけれども、同時に、基本的には一カ所に自分のすべてを集約しておきたいと思うので、整理がつかない。

サービスによって、見てくれている人の集団が違うので、一つのテーマ、一つのコンセプトにつき、一つの場所が望ましい。
けれども、発信するための手間を考えたら、場所は少ない方が楽である。

楽じゃなければ更新をし続けるモチベーションも低下してしまう。
登録はしてみたものの、使っていないWebサービスがいくつもあるというお馴染みの状態になる。

ブロガーの人などは、この辺りの「更新を続ける」ためのハードルは割と低いのかもしれないけれど、一般の人というのは、そうそう多くのサービスを使いこなすわけでもない。
多くて2〜3個ではないだろうか?

しかし、便利で楽しいソーシャルサービスは日に日に登場している。
ソーシャルなサービスは、スケールがある程度大きくなってから楽しくなるものが多いだけに、ユーザーが分散化してしまっているのは非常にもったいない。

そこで、ソーシャルサービスを一元的に管理できるインターフェースを持ったマイポータル的なものが登場するといいのになぁと、日頃から悶々としている次第である。

iGoogleやLife-Xなんかが近いのかな、とは思うけれども、そんなに盛り上がってもいないようである。
取り込めるサービスの幅や、UIが直近の課題だろうか。

UIに関しては、iGoogleのように、モジュールを組み込む(って言うのかな?)タイプがいいのか、はたまたtumblrのように、濁流感溢れるものがいいのか。

うーん。ともあれ、そんなポータルができたら至極便利だなぁと思うのだ。
誰か開発してくれないかしら。


「〜である」口調のせいか、非常に徒然なるエントリになってしまった。
うーん。